カカオと香りが織りなす実験空間。日本橋兜町「nib」と「Fragrance lobby」が挑む、五感を刺激する新たな文化体験
カカオと香りが織りなす実験空間。日本橋兜町「nib」と「Fragrance lobby」が挑む、五感を刺激する新たな文化体験

日本橋兜町、渋沢栄一邸宅跡地に建つ歴史建築「日証館」の1階。扉を開けると、左手には8席限定のカカオのラボ「nib」、右手には蒸留器が据えられた香りのラボ「Fragrance lobby」が広がります。nibでは、カカオ豆をみずから焙煎し木の鉢で砕く体験から始まるデザートコースなど、カカオの新たな可能性を探究する食体験を提供。一方のFragrance lobbyでは、季節の植物から抽出した天然香料を使ったブレンディング体験ができます。
nibのシェフ・眞砂翔平さんと、Fragrance lobbyの調香師・山内みよさん。食と香りという異なる領域が同じフロアに共存することで生まれる体験は、まるで博物館を訪れたように知的好奇心を刺激します。金融街として知られるこのエリアで、2人はどのような実験に取り組んでいるのでしょうか。
「カカオ=チョコレート」という常識を問い直す
ーまずは、nibを立ち上げた背景について教えてください。
眞砂翔平さん(以下、眞砂):2021年この日証館の1階に、「teal」というチョコレート&アイスクリームショップを開業しました。そして、ショコラティエとして活動する中で、原料であるカカオそのものに深く関わりたいと考え、新たに開業したのがnibです。
カカオは栽培・収穫・発酵・乾燥を経て輸入されますが、私はいろんなカカオ産地を巡る中で、「発酵」の重要性を改めて知ったんです。とりわけ、コスタリカのカカオ農園を訪れた経験が、特に大きな転機になりました。そうした産地での体験を重ねる中で、カカオをもっと深く探究したいと思うようになったんです。

8席限定のU字型カウンター。カウンター越しのライブ感の中で、カカオの魅力を五感で体験できる空間
ーnibは体験型デザートラボラトリーということですが、どのような思いから設計されたのでしょうか?
眞砂:「実験的かつ持続的な取り組み」をコンセプトに掲げています。「実験的」というのは、他国でもあまり例をみない、カカオという素材自体に特化した空間として、世界に向けてチャレンジングな取り組みを行っていくということ。実際、平日の来店客の約4割が外国の方で、世界中のお客様にお越しいただいています。
一方、「持続的」な取り組みというのは、カカオの新たな可能性を広げること。現在、カカオはほぼ全てチョコレートに加工されていますが、新たな調理法や食べ方を提案できれば、カカオという作物に新たな価値が生まれ、生産地での持続的な栽培にもつながるのではないかと考えているんです。

Fragrance lobby 調香師・山内みよさんとnib シェフ・眞砂翔平さん
ー具体的には、どのような提案をされているのでしょうか?
眞砂: nibでは、あえてチョコレートの使用を抑えて、カカオから生まれる他の素材を中心にコースを組み立てています。例えば、チョコレートを作る過程で出るカカオ豆の外皮。通常は廃棄されてしまうのですが、煮出してお茶として提供しています。鰹節や昆布の「だし」と同じように、カカオからも「うま味」を抽出できるんです。
こうした発想の原点は、産地での体験です。コスタリカの農園では、カカオ豆をローストしてペースト状にしたものにハチミツを加えて出してくれました。そのシンプルだけどとても美味しかった驚きを、お客様にも味わっていただきたいと思い、カカオ豆をみずからローストして、木の鉢で砕いてもらう体験などを提供しています。

カウンターに用意された小さな鉄板でカカオ豆をみずからローストする体験型メニュー。パチパチと焦げる音と香ばしい香りが立ち上る
ーカウンター越しの対話も、この店の大きな特徴ですね。
眞砂:カカオを軸にお客様と対話すると学びが生まれます。ときおり、お子様も来店されることがあり、食育の場としても機能していると感じています。カカオについて知ることで、チョコレートを深く味わえるようになる。優れたショコラティエは世界中にいますから、より好きになってくれるような場所でありたいですね。

「カカオジャーニーコース」12,000円。シェフが旅で巡り出会ったカカオの産地をイメージし、その風土や香りを一皿ごとに映し出したデザートコース。「カカオの飲み物」、「小菓子」、「タイティー」、「銘菓」、「農園で食べる」、「農園の足跡」、「おまけ」で構成される。創意工夫が施された品々は、まるで同じ原料と思えないほど、酸味や苦味、そして甘みが多種多様に感じられる
香りの「体験型ラボ」という発想
ー続いて、隣に位置するFragrance lobbyについてお聞かせください。山内さんは、なぜこの場所で始められたのでしょうか?
山内みよさん(以下、山内):これまで17年間、調香師として企業、ホテル、商業施設、クリニックなどの空間に天然香料を使った香りを提供してきました。ブランドの香りのプロデュースや、空間演出が仕事の中心です。
ただ空間に足を運んだ方だけでなく、もっと多くの方に天然香料の魅力を直接届けたい。食の空間と一緒にできれば、より豊かな体験をお届けできると思ったんです。

Fragrance lobbyのスペース
ーBtoBからBtoCへの転換ということでしょうか?
山内:そうですね、ですが今回は香りの製品を販売するだけでなく、その工程を体験できる「ラボ機能」を持たせたいと考えました。
天然香料の魅力は、植物から香りを抽出するというプロセスそのものにあるんです。合成香料は化学的に再現されますが、天然香料は季節や産地によって香りが微妙に変化する。その豊かさ、複雑さは、植物が持つ生命力そのものだと思っています。
だからこそ、その抽出プロセスを実際に見ていただくことに意味があります。中央カウンターに蒸留器を配置したのは、そうした理由からです。ここはラボであり、同時にオリジナルブランド「LAURASIA」のショールームでもあります。製品を手に取っていただきながら、その背景にある抽出の様子も体験できる。このライブ感の中で、お客様と一緒に香りの体験を作り上げていける点が魅力的でした。

これまで手がけてきたクライアント空間の香りが楽しめる展示

Fragrance lobbyでは、先入観を与えずに直感的な香りをセレクトしていただくために、豊富な種類にナンバーを振るなど、実験室のような工夫が細部まで計算されている
ー実際にここで蒸留を行っているのですか?
山内:そうなんです。素材としては、季節ごとに元気な植物を集め、それをもとに香りの構成を考えます。例えば、春先であれば新芽の爽やかな香り、夏であればハーブの力強い香り。その時々の植物と向き合いながら、nibのおしぼりなどの形で提供しています。
同じ日本橋の茅場町にある「Edible KAYABAEN」※という屋上ファームガーデンから、季節のハーブなどをご提供いただき蒸留することもあります。地域で育った植物を、地域の中で香りに変えて循環させていく。そうした持続可能な取り組みができることも、この場所ならではの魅力だと思っています。
また、公共空間の調香から得た知見をもとに開発した"Personal Blending"——オーダーメイドの香り創り体験もご用意しています。「Seasonal Mist」は約1ヶ月ごとに香りが変わり、店内のディスプレイも変わるので、来店するたびに異なる体験ができます。
※米・バークレー発の菜園教育を日本の風土に適した形で伝えるエディブル・スクールヤード・ジャパン(以下、ESYJ)と、同エリアの再活性化プロジェクトを進める平和不動産との共創から生まれたガーデン&キッチン
詳しくはこちら:【都心ビルの屋上で“いのち”を見つめる。日本橋茅場町の菜園教育が街にもたらすものとは?】
食と香り、繊細なバランスを設計する
ー食と香りを同じ空間に共存させるため、どのようにバランスを取られているのでしょうか?
山内:天然香料は食との親和性が高いこともあり、これまでもシェフの方々とコラボレーションしてきました。メニュー構成や季節の食材について解像度高く話し合いながら、天然香料と掛け合わせたときに違和感が生じないよう設計しています。
香りの変化のさせ方が非常に重要で、右側の香りのスペースに先に立ち寄られる方も、直接nibのカウンターに来られる方もいます。どういう動線でいらっしゃっても、向こうから漂ってくる香りが心地よかったと感じていけるような、香りと料理のバランス、そして距離感をこだわって考えています。

眞砂:隣接していることで、私自身も刺激を受けています。Fragrance lobbyの香りが日々変化しているのを感じることで、香りというものへの解像度が増しています。季節ごとに街を歩いたときの香りのインスピレーションも、メニューにも反映されていますね。
山内:逆に、nibで使用した果物の皮やスパイスなど、本来なら廃棄される素材をこちらで活用した香りの開発も進めているんです。素材を循環させていくという意味でも、この隣接が機能していますね。
歴史のレイヤーを剥がし、可視化する
ーこの日証館という場所を選ばれた理由を教えてください。
山内:私はもともと、古い建物に惹かれていました。ヨーロッパの街並みのような雰囲気が好きなのですが、日本では素敵な建物が奇跡的に残っていても、周囲の街が変わってしまっていることが多いんですね。このエリアは風景も素敵だったので、以前からこちら側のエリアで何かできればと思っていました。

ー山内さんは「日証館」にちなんだ香りも調香されています。日本橋兜町をリサーチされる中で、このエリアの魅力をどのように感じられていますか?
山内:このエリアの歴史を調べると、もともと江戸川があって、運河が張り巡らされていました。古い建物には川に面した入口があり、当時の人々は洋館に灯る光を見て憧れを抱いていたような、そんな街だったんです。
その後、関東大震災でこの街が一度静かになり、今度は金融街として盛り上がって、日本を支える文化の中心になった。形を変えながらも、中心地である歴史に惹かれ、そのイメージを香りに落とし込んでいます。
ー金融街という論理的な思考が求められる場所に、このような感覚的な体験を提供する店が加わることで、新たなバランスが生まれているように感じました。
山内:おっしゃる通りなのですが、実は私たちがやっていることも、アウトプットは感覚的に見えますが、その構築過程は極めて論理的なんです。香りも基本は化学ですから、どの香りがどう出来上がるのかを綿密に設計していきます。きっと眞砂さんの作り方もそうですよね。
眞砂:ショコラティエの仕事は論理的です。0.1g単位で素材を計量し、温度も1度単位で管理する。非常に厳密な世界なんですね。構築は論理的で、しかしアウトプットは感性豊かなものになる。そこが面白いところだと思います。
ー空間設計でこだわられた点は?
眞砂:柱を剥がしきることで、歴史のレイヤーを可視化したいと考えました。どこまで剥がすか試行錯誤し、最終的には全て剥がしてもらいました。
最初にテストしたときは、かなり剥がれてきて、作業してくださった職人さんは難色を示しました(笑)。しかし、デザインとしては非常に素晴らしかったのでそのまま採用しました。実験的な店舗だからこそ、こうした挑戦ができたと実感しています。

また、壁にはカカオ豆の外皮を練り込んだ素材も使用しています。はじめの発酵由来の匂いも時間とともに落ち着きましたね。空間設計でも、カカオの学びにつながるきっかけになればと思っています。
山内:Fragrance lobby側は、スペインやアラブのような乾燥した地域の岩肌、岩窟を掘り抜いたような雰囲気を意識しました。奥行き感を持たせ、どんどん深掘りしていけるような体験の導線を設計しました。
日本の食文化とカカオ、地域と香りをつなぐ
ー今後、nibではどのような展開を考えていらっしゃいますか?
眞砂:あらためて、チョコレートにも挑戦したいと思っています。タイのあるチョコレート店で、トムヤムクン味を見つけたんです。ちょっと聞いたら美味しくなさそうですよね。でも、実際に食べてみたらすごく美味しかったんです。
興味深いのが、その店は外国のお客様が90%以上で、お土産として購入されていました。トムヤムクンそのものを入れているわけではなく、トムヤムクンの素材を厳選して使っていたんです。
それは日本でも応用できると思いました。外国の方が訪れたとき、日本の食文化を味わってもらえる一つの形になるのではないかと。例えば、味噌やだし、ラーメンといった日本の食文化の要素を、チョコレートという形に翻訳してアウトプットしていくこともできますね。
実は、お客様からの提案もあるんです。メニューでローストしたカカオをすりつぶす体験もしていただくのですが、使う道具にもっといいのがあるよ、とか面白いアイデアをいただくこともあって。まさに実験場ですね。
ーFragrance lobbyでは今後どのような展開を考えていらっしゃいますか?
山内:日本橋にご縁をいただいたため、自治体と連携して香りを作るプロジェクトにも興味があります。兜町や日本橋など、地区ごとに植生や歴史を反映した香りを設計し、“香りのスタンプラリー”のような取り組みができれば面白いなと。
地区ごとに植生も異なりますし、「町の花」などのアイコンからイメージを作ったり、さまざまなアプローチができるんです。このエリアには深い歴史がありますから、それを香りで翻訳していくことに大きな可能性を感じています。
そして何より、日本発の香りブランドを育てていきたいですね。香りというとヨーロッパや海外のものというイメージが世界的に強いですが、日本がどうやってそれを作り変えていくか、日本らしく発信できるブランドとして、この日本橋から始められたらと思っています。
ー最後に、これからこの街を訪れる方へメッセージをお願いします。
眞砂:この街は再開発によって、どんなビルができてどう変わっていくかという期待と不安が混在するような場所です。新しいものと古いものが交錯する中で、私たちもその流れに沿って、私たちだからこそできるものを創造していきます。そうした思いを持った方々と一緒に、新しい日本橋の文化を育てていきたいですね。

取材・文:皆本類 撮影:幽玄舎
nib
日本橋兜町に2024年12月オープン。カカオの新たな可能性を探究する8席限定のシェフズテーブル形式のラボ。「カカオジャーニーコース」12,000円、「カカオのデザートコース」6,800円、「カカオのパフェコース」6,800円、「アラカルトメニュー」4,500円を提供。予約なしでの来店も可能。小菓子「カカオの調理発見 ひとつまみ」のテイクアウトも提供。
Instagram: https://www.instagram.com/nib_tokyo/
Fragrance lobby
天然香料を使用した香りのラボ&ショールーム。オリジナルブランド「LAURASIA」を中心に展開。調香師・山内みよ氏による蒸留機能を活かした実験的な取り組みを行い、カウンセリングルームでオーダーメイドの調香"Personal Blending"が体験可能。
Instagram: https://www.instagram.com/fragrance_lobby/
