仕掛け人に聞く、日本橋の夏の風物詩・アートアクアリウムの開発ストーリーとその未来。
仕掛け人に聞く、日本橋の夏の風物詩・アートアクアリウムの開発ストーリーとその未来。
2011年より毎年開催され、日本橋の夏の風物詩となっている「アートアクアリウム」。累計入場者数がまもなく1000万人に到達するこの人気展覧会の仕掛け人が、アートアクアリウムアーティスト・木村英智さんです。同展覧会を起点として、劇場型レストラン「水戯庵」の運営など活躍のフィールドを広げる木村さんの原動力はどこにあるのでしょうか?日本橋の街への想い、ビジネスの考え方、これからのチャレンジなど、多方面からお話を聞きました。
アクアリウムにクリエイティビティを。世界を旅して見えた独自の表現。
―今年もアートアクアリウムの会期がスタートしましたね。はじめに木村さんのルーツをお伺いしたいのですが、この展覧会を手がける前はどんな活動をされていたんですか?
もともとは熱帯魚屋として観賞魚の小売をやっており、24歳の時に独立しました。そして小売の上流であるトレーディングビジネスをやろうと、フィリピンのマニラに会社を作り、熱帯魚を世界中に輸出する“シッパー”になりました。フィリピンは太平洋の熱帯魚のベースのような場所で、世界中へ熱帯魚を輸出するシッパーが集まっていて、その一つとして参入した形でした。マニラでのビジネスは好調でしたが、治安的にはなかなか危険だったので…2年ほどでフィリピンを離れ世界中を回りながらシッピングするという形態に切り替えて続けていましたね。
―熱帯魚の輸出業から、現在の活動に移行するきっかけはあったのでしょうか?
シッパーとしての仕事は非常にうまくいっていたのですが、28歳の時にふと「自分はこのままで良いのか」と現実に物足りなさを感じたんです。30歳の節目を目前にして皆が感じる焦りのようなものですね。それで思い切って仕事をセミリタイアし、違う世界を見ようと2年かけてさまざまな国を旅しました。それまでも仕事で海外を回っていたものの、熱帯魚がいる赤道直下の国しか知らなかったので、ヨーロッパなど初めて訪れるところばかりで新鮮でしたね。
結果、仕事で貯めてきた資金は2年間の旅で使い果たしました。その間お金と時間をいったい何に費やしていたのかと考えてみたら、ほぼ全てがアート・デザイン・エンターテイメントに関するものだったんです。それで、今までの僕に足りなくて、かつ興味があることはクリエイティブの世界にあるんだと気づいて、そこに向けて舵を切ろうと考えました。
アートアクアリウムの会場の様子
―2年間の旅の中で印象的な出来事はありましたか?
ミュンヘンの某一流ホテルを訪れた時に、夏の期間限定企画でアクアリウムバーをやっていたので、気になって入ってみたんです。ところがこれが驚くほどひどい内容で。一流ホテルが何かを作る時は、通常なら有名なデザイナーやアーティストをアサインするなどして細部までこだわるはずなのに、この企画では日本のホームセンターに置いてあるような吊るしの水槽がたくさん置いてあるだけで、コードも丸見え。アクアリウムをやるためのクリエイティブの要素が何もなかったんです。本当はホテルとしてもこだわりたい部分もあるのでしょうが、魚という生き物を扱うには特殊技術が必要なので、熱帯魚屋さんに従うしかなくなってしまったんだと思うんですよね。一方、熱帯魚業界の人は基本的に魚そのものに目線がいってしまいクリエイティブとは縁遠いから、どうしてもレベルの低いものしかできない。それが現実でした。
-なるほど。レベルの高いコンテンツを提供できるプレイヤーが存在しなかったわけですね。
そうなんです。“ハイセンスなアクアリウムを提案できない”というのが常になってしまっていた。結果、世界のVIPと呼ばれるような洗練された人たちの自宅にはアクアリウムがあまりない、という状況も生んでいました。どんなにセンスの良い部屋でも、アクアリウムは存在感が大きいのでそのレベルが高くないと全てを台無しにしてしまう。熱帯魚の魅力をよく知る僕としては、これは非常に残念なことです。でもだからこそ、クリエイティブの視点があってかつ魚を知り尽くした僕ならこの現状をきっと変えることができるし、僕が変えなきゃいけないとも思いました。
―ご自身の興味と業界の問題が重なったんですね。とはいえクリエイティブ関係のご経験がない中で、どのように作品を作っていったのでしょうか?
いや本当にその通りで、単にクリエイターの道を進もうと思った時は全く未知の世界への挑戦だったので、本気で東京モード学園に入学しようかと考えたくらいです(笑)。でもアートアクアリウムという発想を思いついてからは、作品作りに観賞魚業界にいた頃の経験が活かせるとわかりました。たとえば作品に使われているテクノロジーに関してもそう。魚の生態や快適な環境を考えた上で、作品としてどう光をあて水を流すのかなどということは、熱帯魚のプロじゃないとわからないものです。さらに僕は熱帯魚の小売・問屋・シッパーという仕事をやってきているから、それぞれの視点で重要なファクターを全て知っていて、その経験も大いに役に立ちました。こんな人、ほかにいないんですよ。だから皆が真似できない絶妙な技術を生かして作品作りをすることで、独自の表現が可能になるのではと思いました。
―多方面での経験が、木村さんにしかできない表現を生んだのですね。
全部のカテゴリーで経営者としてやってきていることも重要だったと感じていますね。自分でリスクを負っているから。たとえば会社で決まった予算の中で魚を買うという感覚の人だと、魚の扱いを間違って死なせてしまっても、ごめんなさいと頭を下げれば済むことですが、僕だったら経営の観点で見ているから、その魚を死なせないための様々な対策を考えます。利益を守るためにどんなことがあっても魚を殺さないぞということを必死で考えるわけです。その真剣さがないと、生き物を扱う表現はできないと思っていますね。
今年のアートアクアリウムで泳ぐ金魚は、合計1万匹を超える
“文化の血液はお金”。クリエイティブとビジネスの良い関係を作りたい。
―自らのビジネスだという覚悟と、生き物を扱う知識と経験がないと運営できないわけですね。
そう思います。私の作品で泳ぐ魚たちは理想的な環境で生きていますよ。魚が好きで愛しているから大切にしているというのはもちろんですが、自分の財産を使ってビジネスをしているから、大切にせざるを得ないという側面もあります。両方の目線があるからこれまで継続して事業ができてきたんだと思います。
―アートアクアリウムはビジネスとしても大成していますが、その理由は何だと思いますか?
やはり自分で全てのリスクを背負っていることではないでしょうか。アートアクアリウムは個人興行のようなもので、現状スポンサーは付けていません。スタートした当初は付けていましたが、興行としてやっていけるとわかった頃からスポンサーは入れないことにしました。それによって我々の負担は増えますが、物事の決定プロセスがシンプルになり即時判断できるので純粋にやりたい表現ができますし、すべての流れを把握できるのはビジネスとしてもメリットが大きいです。
―この規模でスポンサーがいないとは驚きです。どうして個人としてそこまでリスクを背負えるのでしょうか?
自分がそういう性質だから、ということに尽きますね。僕は常に今を生きることしか考えていなくて、その時やりたいことに全力を注いでいます。老後のこととか考えてたらこんなことできないですよ(笑)。でも今を生きることを考え続けて生き延びていれば、それが連続してずっと生きていけますよね?そういうスタンスです。
―今を大切にした先に、どんなことを実現したいですか?
僕は後世に残る文化のようなものを作りたい。そのためには活動の血液としてお金も動かさないと文化の生命力はなくなってしまいます。言い換えると、お金が動かないものは結局いらないものであって、それは文化にはならないということだと思います。伝統文化にしても、生き残っているものはビジネスとして成立しているということだと思いますね。
―たしかに世の中には、事業として成立せず、継続展開が厳しくなる興行も多く存在していますね。
クリエイティブとビジネスの相互作用を無視してはならないと思います。文化の血液はお金です。血液がないと物事は動かないし、それをどこにどう流していくかに、仕掛ける側のセンスが現れます。たとえばアートアクアリウムは毎年50〜60万人が訪れて、その人たちは日本橋に来街してあちこちで消費活動をします。そして浴衣を着て来る若い女性が増えて、日本橋の夏の雰囲気や景観はだいぶ変わりました。これはアートアクアリウムでお金が動いたことによる街への影響だと思うし、これこそが僕がやりたいことの一つなんです。
京都に学び、東京で形にする。江戸商人さながらの日本文化の“目利き”人に。
―今日も素敵な浴衣を着こなしていらっしゃいますが、木村さんの活動では“和”が大きなキーワードになっていますよね。そのきっかけは何だったのでしょう?
六本木の森アーツセンターギャラリーで「スカイアクアリウム」という企画をやることになった時に、外国人の多い街でやるからには、やはり日本人として日本文化を伝えるような作品を作りたいと思ったのが、日本文化と向き合った一番最初でした。それでジャポニズムをテーマにしたコーナーを設けて「花魁」という処女作を作ったのですが、これが非常に好評で、今に続く作品作りの原点になりました。
木村さんの処女作「花魁」
―その後日本橋に拠点を移されたんですね。
そうですね。日本文化を作品に取り入れると決めたら、東京では特に文化的である日本橋で展示を行いたいと思いました。日本橋は街道の拠点であり老舗も多い。街の人たちから聞く話も、歴史的なストーリーがあって深みがあるし、圧倒的に他の街と違うんですよ。この街に関わるようになってから日本文化をもっと探求したいという気持ちが強くなりました。さあ何から学ぼうかと思って、まず興味が惹かれたのが着物だったのですが、着物業界の人たちに「日本文化を突き詰めるなら京都に行かないとダメ」と言われまして。それで京都にも出入りするようになりました。
―京都ではどんなことをされているのですか?
着物から入って、お茶や伝統芸能など、さまざまな分野を学んできましたね。多くの方々との繋がりもできて、今の活動の大きな支えになっています。面白かったのは、上方としてのプライドを持っている京都の人も、日本橋には一目置いていることです。「東京出身です」というと軽くあしらわれるのですが、「東京の日本橋です」と言うとちょっと反応が違う(笑)。
京都と言えば、“くだらない”という言葉がどうやってできたか知ってますか?日本橋はもともと町人の集まる場所で、彼らは最初のころ物の良し悪しを知らなかったから、「京都(上方)のものであれば何でも良い」という視点で物を買っていたんです。ところがだんだん日本橋の人たちが目利きになってきて、質の良くない商品を見極めてハネ出すようになる。これが(上方から日本橋に)“くだらない”=価値のないものという言葉の語源なんだそうです。この話を教わった時に、まさに自分のようだと思いました。僕は境遇的にも世代的にも日本文化のことを何も学んで来なかったから、今まさに目利きになるべく努力している過程にあります。江戸商人のように、良いものがわかる日本文化のプロになりたいですね。
―日本文化は敷居が高いイメージがありますが、そこについてはどう思われますか?
そうなんですよね。どういうわけか日本では日本文化に触れるのが一番お金がかかる。30歳を超えてある程度余裕が出てきた時に、やっと日本文化と“会える”入り口に立てるという状況。自国の文化なのに、ちょっとおかしな話です。だからもっと気軽に、日本文化と“遊ぶ”くらいの感覚で親しめる環境を作っていきたいと思っています。
初めは敷居が高いかもしれないけど、遊んでいるうちに次第にわかるようになってくるので、それがまた日本文化の面白いところです。街を歩いていると「あの人の着物は上等だ」と見抜けたり、舞台の笛の上手下手だってひと吹きでわかるようになるんですから。
次のステージは「水戯庵」。大切なのは伝統文化の保護ではなく、継承・進化させること。
―その考えのもと、昨年オープンしたのが水戯庵なんですね。
はい。アートアクアリウムも10年以上やってきて、お客さんも同じだけ歳を取られているので、そろそろ日本文化の真髄を見せるような、次のステージを用意したいと思って水戯庵を作りました。水戯庵は能や狂言、日本舞踊をはじめとする本物の伝統芸能が毎日見られ、一流の食事やお酒も楽しめるという新しい形の劇場型レストランです。
様々な芸能が一箇所で見られて、能でも狂言でも流派を超えて日替わりで舞台に立つなど、今までは考えられなかった新しいことをたくさんやっています。
水戯庵では食事をしながら一流の伝統芸能が見られる
―流派を超えて伝統芸能師を集めるとは…、聞いただけでも実現までの難しさが想像できます。
たしかに、オープンして初めの3ヶ月は能の舞台で能装束をつけてもらえず羽織袴の仕舞だけだったりして、いろいろ苦労もしました。でも僕がやろうとしているのは単なる文化の保護ではなく、継承と進化なんです。だからこれまではご法度だったようなことも少しずつお願いして理解して頂いて、今では能装束で出演頂くのはもちろんのこと、舞台上で能面を付けるところを見せて頂いたり、演奏が終わったあとに能楽師が席を回ってお客さんと話をするなどということまでやって頂けるようになりました。ただ、どんなに新しいことをやろうとも、一番重要な芸能の根幹は残すべきで、むやみに“下りて”いってはいけないとも考えています。守らなければならないところは守る、必要なプロセスはしっかり踏むということはとても気をつけているから、伝統芸能師の皆さんと仲良くなれたのかなと思いますね。
―日本の伝統芸能がここまで集結している場所は他にもあるのでしょうか?
水戯庵には1年で300人以上もの演者が出入りしています。これだけの人数のさまざまな流派が出演する舞台は日本でここしかなく、今日本で一番伝統芸能師の方々の出演人数が多くあるのは水戯庵だと思います。オンリーワンであることには価値があるし、伝統芸能は水戯庵のような進化した形でやらないと、未来に繋がっていかないと思うんです。この試みは必ず花開くと思っているので、ぜひ見に来て頂きたいですね。
今年のアートアクアリウムは集大成。日本文化への興味の入り口として貢献したい。
―水戯庵という表現に至る原点でもあるアートアクアリウムですが、日本橋会場での開催は今年が最後ですね。見所はどんなところでしょうか?
やはり今までの集大成ということです。過去に作ってきたさまざまな代表作を集めました。10年もやっていると、ここで初デートをして結婚したというような人がたくさんいるので、そういう今まで訪れてくれた人たちに過去の思い出を振り返って楽しんでもらい、また新しい思い出を作って帰って頂きたいと思っています。また初めていらっしゃる方は今までの代表作が一度に見られるのが魅力になるはずです。
―この展覧会を通じて木村さんが伝えたいメッセージはどのようなことでしょうか?
アートアクアリウムはもともと、観賞魚たちに晴れの舞台を作ってあげたいという思いと、クリエイティブなことをやりたいという思いから作ったものでした。そこに“日本文化の要素を乗せて伝えたい”という思いが加わり、今の形になっています。アートアクアリウムで表現している日本文化はほんの入門の部分ですが、たとえば「キモノリウム」という作品で使っている着物は一流のものだったりと、本物にこだわっています。そのアートアクアリウムを見た方に、少しでも日本文化に興味を持ってもらえたらとても嬉しいですね。僕が日本文化を探求し始めた原点の街が日本橋なので、その愛着と感謝も込めてアートアクアリウムや水戯庵を通して街に貢献したいと思います。
取材・文:丑田美奈子(konel) 撮影:岡村大輔
木村英智
アートアクアリウム アーティスト
水戯庵 主人
“アート” “デザイン” “エンターテインメント”と、自身がライフワークとして追及している「アクアリウム」を融合させる『アートアクアリウム』という分野を発案・確立したアートアクアリウム アーティスト。その活動の傍ら環境保全運動も積極的におこなっており、アクアリウムと自然環境保護を結びつける活動を行うほか、イタリア・ヴェネツィアの世界最高峯のガラスアートブランドの「VENINI」のデザイナーとしても活躍する。2018年には伝統文化の継承やリアルジャパン復興を目指した “新感覚の劇場型レストラン&ラウンジ「水戯庵」”をオープンさせた。