Interview
2020.04.10

街の誇りを次世代につなぐ。 三井不動産が取り組む日本橋再生計画の“はじまり”と“これから”。

街の誇りを次世代につなぐ。 三井不動産が取り組む日本橋再生計画の“はじまり”と“これから”。

江戸時代に五街道の起点と定められ、さらに魚河岸も置かれたことで水陸の要所となり、全国から多くのヒト、モノ、コトが集まった日本橋。金融、物流、商業、文化などあらゆるものの中心地として繁栄し、明治維新以降も数々の苦難を乗り越え、賑わいを保ってきた日本橋でしたが、バブル崩壊、金融危機などが重なった1990年代半ば以降、その存在感は急速に弱まっていきました。こうした状況の中、1673年に創業した「三井越後屋呉服店」(越後屋)をルーツとする三井不動産は、官・民・地域一体となった日本橋の再開発に着手し、それからおよそ20年。日本橋の街は再び賑わいを取り戻すまでになりました。この「日本橋再生計画」を先導した三井不動産の北原義一代表取締役副社長に、計画の舞台裏や日本橋の街に対する思いなどを伺うべく、Bridgineの編集メンバーでもある同社日本橋街づくり推進部の坂本彩さんがインタビューを行いました。

逆風の中で踏み出した、日本橋再生計画の第一歩。  

坂本彩さん(以下、坂本):まずは、北原さんが三井不動産に入社されてからのご経歴を簡単にお話し頂けますか?

北原義一さん(以下、北原) :私は1980年に入社し、関東エリアの田畑や山林の地主さんから宅地開発のご了解を得るという仕事を5年ほどしていました。最初の仕事で農家さんにご挨拶に伺ったら、軒先に入った瞬間に「何しに来やがった!」と熱いお茶をかけられ、なんという仕事の担当になってしまったんだと思った記憶があります(笑)。その後、岡山支店に転勤となり、4ヶ月ほど働いた後に今後は広島支店から呼ばれ、埋立事業に携わるようになりました。舞台が陸から海へと変わり、漁師さんたちとの交渉が主な仕事だったのですが、最初は書類を渡しても払いのけられるようなことが少なくなかったですね。でも、何度も顔を合わせているうちに、最後は黙ってサインしてくれるようになり、信頼関係が築けたことがいまでは良い思い出です。こうした仕事を通して、人はそれぞれ異なる価値観を持っていて、ひとつの正解というものがない世界の中で全体のバランスを取ることが我々の仕事なのだと学ぶことができました。

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三井不動産の副社長で、「日本橋再生計画」の立役者・北原義一さん

坂本:東京に戻られたのはいつ頃だったのですか?

北原:計8年間の支店勤務を経て、入社13年目に本社に戻り、日本橋を中心とした中央区エリアのビルの賃貸営業に課長代理という立場で携わるようになりました。当時はバブル崩壊直後でオフィスビル市場は崩壊し、会社の経営も非常に厳しい時期。金融危機なども重なる中で、日本橋では白木屋の頃から長い歴史を持つ東急百貨店日本橋店が閉店し、街の商業的な盛り上がりが失われつつあるタイミングでした。その跡地を我々が交渉の末に取得したのですが、その途端三井不動産の株は大暴落しました。「お前が馬鹿な買い物とするからだ」と罵倒する人はまだ良い方で、何も言わずになんとなく慰めてくれるという周囲の反応が、社内にいて何よりもつらかったですね。

坂本:その時に取得したのが、後にCOREDO日本橋が入る日本橋一丁目ビルディングで、これが日本橋再生計画の最初の竣工物件となるわけですね。

北原:そうです。当時の会社は日本橋のエリアとしての価値に懐疑的なところがあったのですが、三井グループ創業の地であり、曲がりなりにもその中核企業である三井不動産が本社を置く街です。それにもかかわらず、会社案内のパンフレットなどに載っている代表的な建物は、1968年竣工の霞が関ビルディングや1974年竣工の新宿三井ビルディングなどから変わらないままで、長い間日本橋での事業が疎かになっていたわけです。やってみてだめなら仕方ないですが、何もしないままこの街を諦めてしまうのはおかしいだろうという思いがありました。だからこそ、自分がなんとかしてやるという反骨精神や闘志が湧いてきたのだと思いますし、当時の岩沙弘道社長(現会長)をはじめとした役員陣も心の奥底ではなんとかしたいと思っていたからこそ、反対意見も少なくない中、日本橋一丁目ビルディングのプロジェクトにゴーサインを出してくれたのだと感じています。

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聞き手を務めてくれた三井不動産 日本橋街づくり推進部の坂本彩さん

都心部でいまなお維持される、顔の見える共同体。

坂本:東京の下町ご出身の北原さんだけに、日本橋の街に対する思いも人一倍強かったのではないですか?

北原:そうですね。最近ではコミュニティという言葉がよく使われますが、街というのはやはり共同体だと思うんですね。私が生まれ育った上野界隈はどちらかというと住宅が中心のエリアでしたが、一方で日本橋は江戸時代から続く業務地区であり、同時にお互いの顔が見えるコミュニティが維持されていることが大きな特徴です。都心部の一等地にありながら、こうした特徴を持つ地域は他にほとんどなく、これは誇るべきことだと思いますし、施設のテナントさんが地域の神輿を担ぐなど、古くから残る文化と最先端の企業などが交わる機会があることも非常に稀ですよね。

坂本:日本橋の老舗の方たちと接していると、毎週のように一緒に飲んでいたり、みなさん本当に仲が良いんですよね。日本橋というのは、人と人が大きな家族のようにつながっているアットホームな街だと感じています。一見、内向きに感じられるかもしれませんが、ハードルは意外と高くなく、一度スッとコミュニティの中に入ってしまえば、第二の家族を持ったような感覚になれる街だなと。

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北原:私はそれを「大いなる田舎」のように感じているのですが、ムラ社会的な相互扶助精神を持った有機的な共同体なんですよね。自分が育った街にも似たようなところがあって、私自身子どもの頃はプライバシーが保てなくて苦労したこともありましたが(笑)、それを差し引いても余りある良さというものが、こうしたコミュニティにはあると感じています。

坂本:日本橋の歴史についてはどのようにとらえていますか?

北原:東京は関東大震災や東京大空襲によって苛酷な目に遭い、そこから奇跡の復興を成し遂げたわけですが、日本橋はその象徴とも言える街です。例えば、1929年に日本橋の三井本館が建て替えられた背景には、関東大震災で甚大な被害を受けた東京の街に絶対に倒れない建物をつくり、国民を勇気づけたいという三井財閥の総裁・団琢磨の思いがありました。江戸期前後から続く400~500年という歴史の重みを持つ日本橋において、現世の利益を追求するだけではなく、祖先が培ってきたものを引き継ぎ、次世代のために何ができるかを考えることは非常に重要です。 我々が推進する日本橋スマートシティプロジェクトにしても、かつての三井本館のように、東日本大震災によって大きく動揺した東京の人たちにとって、災害時などの駆け込み寺になり得る場所をつくりたいという思いがもとになっています。

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竣工当初の三井本館。(画像提供:三井不動産)

点から線、そして面へー。繋がれてきた世代のリレー。 

坂本:ここまでに伺ってきたような特徴を持つ日本橋という街を活性化していくにあたり、どんなヴィジョンを描いてこられたのでしょうか?

北原:エリア間競争という観点で言うと、当時の日本橋は、東京駅を挟んだ大手町・丸の内エリアに水を開けられており、これらの街に追いつき追い越すためのバリューをいかに出せるかというのが課題でした。その中で私は、中央通りの五番街化、永代通りのウォールストリート化を構想し、このクロスが整備できれば日本橋エリアの価値は高まると考えていました。大手町や丸の内に賃料で肩を並べ、商業集積では凌ぐと宣言したのですが、部下ですらも「そんなことを言うと恥をかきますよ」と言う始末。でも、時をほぼ同じくして、当時の日本橋に危機感を抱いていた地元の企業や商店、団体の方たちが、日本橋にかつての賑わいを取り戻すことを目的に「日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会」を立ち上げられました。こうした地元団体の動きと連動できたことも追い風となり、地域一体となって日本橋の再生を進めていくことができました。

坂本:日本橋再生計画は1990年代後半よりスタートし、最初の物件として2004年にCOREDO日本橋が開業しました。そして、2014年の「COREDO室町 2・3」開業が契機となった第2ステージでは、「産業創造」「界隈創生」「地域共生」 「水都再生」の4つのキーワードを軸に、ソフトとハードの融合による街づくりを推進してきましたが、こうした変遷を北原さんはどのように見てこられましたか?

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第2ステージにおけるキーワードのひとつ「界隈創生」では、歩きたくなる路地空間を創造し、賑わいの連続性を生みだすことが目指された。(画像提供:三井不動産)

北原:日本橋一丁目ビルディングを取得した時点では、このビルと、すでに構想が進んでいた日本橋三井タワーという2つの点が日本橋の南北にあっただけでした。その後、COREDO室町1・2・3などができて「点」が「線」となり、さらに福徳の森などが整備されていくことで「線」が「面」になっていった。これらは一朝一夕で実現できたわけではなく、私から坂本の世代まで何代ものリレーが繋がってきた結果です。現在の日本橋の賑わいがあるのも、そうした世代のリレーが切れずに続いてきたからこそだと思いますね。

坂本:日本橋一丁目ビルディングの取得から数えるとすでに20年以上が経ちますが、街の変化についてはどのように感じていらっしゃいますか?

北原:私が三井不動産に入社した頃の日本橋は、ゴーストタウンと言ってしまうと失礼ですが、夜や週末には人の息吹がほとんど感じられなくなる街で、仕事を終えて日本橋で飲むようなこともほとんどありませんでした。そうした時期から比べると目に映るものすべてが変わったと言っても過言ではないですね。建物の開発が進んだというハード面の変化だけではなく、街全体に活気が戻ってきているとも感じています。

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原点に立ち返ることで見えてくる、この街ならではの個性。  

坂本:2019年の日本橋室町三井タワー(COREDO室町テラス)の竣工を経て、日本橋再生計画は第3ステージへと進んでいます。「新たな産業の創造」などの重点構想を掲げていますが、これからの日本橋の街づくりにはどんなことが必要になるとお考えですか?

北原:現在、ライフサイエンス分野のプレイヤーたちの活動拠点の整備やコミュニティ構築などを目指すLINK-Jの取り組みを推進していますが、こうした産業創造を見据えた街づくりは大切になるのではないでしょうか。また、日本橋はもともと町人街として文化や芸術の花開いた街でもあります。美術や音楽など文化関連のテーマも強化していければ良いと思います。日本橋の歴史を踏まえ、ストーリーのあるテーマを設定していくということがポイントになるかと思います。

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江戸時代に薬種問屋が軒を連ねた日本橋を、医薬品産業をはじめとするライフサイエンス領域のプレイヤーが集積する街にすることを目的に設立された一般社団法人ライフサイエンス・イノベーション・ネットワーク・ジャパン(LINK-J)。ライフサイエンスに特化したイベントの開催や、賃貸オフィス、シェア型ラボなど多様な拠点の整備などを行っている。(画像提供:三井不動産)

坂本:「ライフサイエンス」領域については、これまでの活動の結果、企業や人の集積が強まってきています。こうした新産業の成長をさらに加速化していくために、街としてどういったことが必要になるとお考えでしょうか?

北原:ボストンやケンブリッジなどの街が良い例ですが、産業というのはアカデミアとセットになっていることが多いんですね。日本橋は、5キロ圏内にまで範囲を広げればいくつかの大学があるものの、ゆくゆくは日本橋エリアに実際にアカデミアを誘致したいという思いがあります。その出先機関として「LINK-J」のような団体が機能するようになることが望ましいと考えています。

坂本:日本橋再生計画を通して街はだいぶ若返りましたが、まだまだ若い人が少ないと感じています。そういう観点からも大学や研究施設の誘致は大きな目標になりそうですね。今後ますます変わっていくことが予想される日本橋ですが、一方で変わらずに大切にしなければいけないものについてはどのようにお考えですか?

北原:三井不動産では、IoTやビッグデータサイエンス、AIなどの技術を駆使し、シェアリングエコノミーが実現されたスマートシティをつくることを掲げており、日本橋をその重要拠点に位置づけています。ただ、振り返ってみると日本橋というのは、先にも話したように互助の精神のもと、お隣さんにおすそわけをしたり、見知らぬ人が近所をウロついていないかをチェックする機能を共同体が担っていたり、もともとシェアリングエコノミーが成立していた街なんですよね。その頃に比べると人口は大幅に増え、企業も住民も多様化しているので、足りない部分については先端技術を活用して補足し、対応していくことは必要です。ただ、それだけでは他の街と同じになってしまう。何よりも大切なことは、日本橋の古き良き、「顔の見える」シェアリングエコノミーの文化を引き継いでいくことなのだと思っています。

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日本橋から発信する未来へのメッセージ。

坂本:Bridgineでは、「はじまりを引き継ぎ、これからを共に創る」という考え方を今後大切にしていきたいと考えています。今日お話し頂いたような共同体のあり方も引き継ぐべき日本橋の大切な文化のひとつだと言えそうですね。

北原:老舗の人たちが大切にしている江戸の粋こそが日本橋の精神性だと思っていて、言い換えるとそれは「やせ我慢」や「自己犠牲」の精神だと思っています。いま世界はこれらを忘れつつあり、自分のことばかりを考えるようになっている。だからこそ、この街が培ってきた精神文化の価値はますます高まっているのではないかと思います。400年を超える歴史を持つ日本橋の矜持として、互助の精神、大人の色気というものは失ってほしくないですね。

坂本:Bridgineではまた、メディアを通して街の情報を外に発信していくことともに、街の中に新たな変化や繋がりを生み出していくことも目指しています。北原さんがこれからの日本橋の街に求めるものなどがあれば、ぜひお聞かせください。

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首都高が地下化された将来の日本橋のイメージ。(画像提供:三井不動産)

北原:世界を見て、さまざまな国籍、民族、価値観の人たちに、日本橋の個性や良さを伝える努力をして頂きたいですね。私は海外で日本橋の話をする機会も少なくないのですが、この街に興味を持ってくださる方は非常に多いんですよ。日本橋の街が持つ精神性には、世界が学ぶものが必ずあると感じています。日本橋あるいは江戸の下町が培ってきた心意気のようなものを、私たちが誇る精神文化として世界に示すことで、各地の指導者たちが気づきを得たり、他の地域で街づくりに取り組む人たちが日本橋に学びに来たいと思うようになったら素晴らしいなと思います。

坂本:「未来につながる街道の起点、日本橋」という街づくりビジョンにもつながるお話ですね。日本橋に世界中からヒト・モノ・コトが集まり、新たな価値を世界に向けて発信していく。そんな求心力と発信力を兼ね備えた街を目指していきたいですね。

北原:地域の再生に限らず、これからの時代は最先端の技術とともに精神性というものが非常に重要になってくると思いますし、現に欧米企業の経営陣も禅をはじめとした精神文化に強い関心を示していますよね。また、ミレニアル世代、Y世代、Z世代などと呼ばれる若い人たちは、「成長」を目指してがんばってきた従来の世代とは異なる価値観を持ち、社会起業家なども増えています。他方、世界では貧困から抜け出すためにテロリストになってしまうといった負の連鎖も生まれている。こうした時代だからこそ、江戸の下町で培われてきた粋の文化、互助の精神に未来へのヒントを見出せるような気がしますし、その象徴的な存在である日本橋の街というのは、大げさな話ではなく世界の人たちの目標になるという意識を持ち、共同体を維持・拡大しながら、同調者を内外に増やしていくことが大切になるのではないかと思っています。

最後になりますが、いま世界中に拡がっている新型コロナウイルスによって、私たち人類は、「日常」がいかに大切なものなのか、そして、それがいかに危うく脆いものなのかということを痛いほど思い知らされています。昨今のコロナショックは、日常が「当たり前」のものだと勘違いしていた私たちに対する天からの警鐘なのかもしれません。「当たり前」の反対語は、「あり得ない」です。「あり得ない」からこそ「ありがたい」んです。人類が一致団結してコロナウイルスを克服し、「ありがとう!」と言える社会を、未来に向けてつくり上げていきましょう。それを実現するのは、私たち一人ひとりの自覚と覚悟です。いまこそ、江戸の粋、日本橋の心意気を示していきたいですね。

文:原田優輝(Qonversations) 撮影:岡村大輔

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