Interview
2023.06.14

建築とメディアの両輪で、街に新たな文化を創る。Open A・馬場正尊さんに聞く、日本橋の「これまで」と「これから」

建築とメディアの両輪で、街に新たな文化を創る。Open A・馬場正尊さんに聞く、日本橋の「これまで」と「これから」

「日本橋再生計画」の旗印のもと、コレド日本橋などの華やかな商業施設が誕生し、日本橋の「表」の顔が大きく変貌し始めた2000年代初頭。ほぼ時を同じくして、馬喰町や横山町、小伝馬町など日本橋の東エリアを中心に「CET(セントラルイーストトーキョー)」という活動が行われていたことをご存知でしょうか。街に点在する空きビルや倉庫を利用したアーティストの展示やイベントなどが行われ、空き物件をリノベーションしたカフェやギャラリーも現れるなど、CETを通じてかつて問屋街として賑わったエリアに新たなムーブメントが生まれました。この活動の発起人のひとりであり、同時期に独自の視点から個性的な物件を紹介する「東京R不動産」も立ち上げている馬場正尊さんは、当時から日本橋に拠点を置き、建築設計、都市計画、メディア運営など多岐にわたる活動を続けています。ご自身が代表を務めるOpen Aが設立20年を迎える節目の年に、都市、建築、メディア、そして日本橋の街について聞きました。

「新しい風景を見たい」という好奇心

ー建築設計や都市計画、メディア運営など、Open Aはさまざまな事業を展開されていますが、現在の活動の軸について教えてください。

会社の収益の大半は建築設計なので、いわゆる建築設計事務所というのが基本の形だと思います。そこに公共空間と市民や企業を結ぶためのメディア「公共R不動産」などベンチャー部門のようなものがあるといったイメージでしょうか。また、こうしたメディアを持っていることで行政や企業から公民連携事業の 相談なども受けるようになり、いまは建築設計の前段階にあたるコンサルティングや事業スキームの構築などに関わることも増えています。さらに、沼津と福岡にある公園一体型宿泊施設「INN THE PARK」など、施設の空間設計のみならず運営マネジメントまで担うこともありますし、廃材を使った家具などのプロダクトデザインも行っています。社名の「Open A」は「Open Architecture」に由来しているのですが、まさにどんどんオープンに広がってきました。

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取材に応じてくれた馬場さんが代表を務めるOpen Aは今年で設立20周年を迎える

ーこうした多岐にわたる活動を串刺しにするようなキーワードはありますか?

特に一貫した理念やコンセプトのようなものがあるというよりは、新しい風景を見てみたいという好奇心がすべての原動力になっているような気がします。その時々で面白そうだと触手が動くものに反応し、良い意味で場当たり的に身を委ねるということを20年繰り返してきた結果、現在のOpen Aがあるという感じです。

ー「新しい風景を見る」ための道具として、設計/デザイン、メディア/編集などを活用してきたようなイメージでしょうか。

そうですね。僕は大学で建築を学びましたが、高校生の頃はジャーナリズムにも興味を持っていました。大学卒業後は、外の世界から建築や都市を見てみたいという思いで博報堂に就職し、メディアの世界に身を置きました。30歳の頃から4、5年間は、同人誌をつくるようなノリで立ち上げた雑誌『A』の編集に夢中になっていたのですが、そこから改めて建築設計と向き合いたいと考え、現在のOpen Aにつながるような仕事をするようになりました。

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「泊まれる公園」をコンセプトに掲げ、2017年に静岡県沼津市で開業した「INN THE PARK 沼津」。かつて小中学生による林間学校などが行われていた旧沼津市少年自然の家を改修した同施設は、企画から設計、運営までを一貫してOpenAが手がけている(画像提供:Open A )

「R不動産」は日本橋発のローカルメディア!?   

ー建築家としての馬場さんの興味はどんなところにあるのでしょうか?

僕は、内発的な動機から見たこともないような新しい建物をつくっていくようなタイプではなく、いまある風景をより面白くしたり、状況を好転させていくことにコミットする方が心地良いんです。これは、もともとジャーナリストになりたかったということにも関係しているのかもしれません。リノベーションというのは非常にジャーナリスティックな行為だと思うんですね。そこにすでにある歴史や記憶、状況、人々との関わりを読み解き、デザインによって変わる風景を妄想しながらリノベーションをするわけですが、これは既存の建物や風景とインタビューや対話をする行為に近い。自分の中では、空間のデザインも雑誌やメディアの編集も使っている力はあまり変わらず、両者は分かちがたくつながっているんです。

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1998年から2002年まで馬場さんが編集長を務めていた雑誌『A』 。誌名はArchitecture、Art、Anonymous、Anythingなどの頭文字から取ったものだという(画像提供:Open A )

ー馬場さんが立ち上げた「東京R不動産」は、リノベーションというカルチャーを広く浸透させた存在でしたね。

「東京R不動産」の誕生には、この日本橋というエリアが密接に関係しています。雑誌『A』をつくっていた頃に住んでいた中目黒が年々オシャレで華やかな街になっていき、居づらくなってきたんですよね。そこで次に面白くなりそうな街を探すようになって見つけたのが日本橋エリアでした。江戸時代から続く町名や街区が残っていることが面白かったし、当時勝手に「裏日本橋」と呼んでいた馬喰町や小伝馬町などにはエキゾチックなお店が多く、それまでの僕には知らなかった世界が広がっていたんですよね。そんな街が東京駅のすぐ近くにあるというギャップも面白くて、それこそ好奇心のアンテナが反応したんです。このエリアの物件を探し始めたところ、元倉庫などの面白い物件がたくさんあることがわかり、空き物件から街の状況を眺めるという考現学的(※)な視点で書き始めたブログが、「東京R不動産」の始まりでした。

※現代の社会現象や風俗世相を調査、記録、考察する学問。「考古学」に対する概念として、建築学者、民俗学者の今和次郎が1920年代に提唱した。

ーいまや全国にネットワークが拡がっているR不動産ですが、日本橋発のローカルメディアといった出自があったのですね。

そうなんです。もともとは街を探検するためのメディアで、当初は日本橋エリアの物件ばかり載せていました。都市の状況が表出する不動産に目を向けることは都市を観察することと同じでとても面白かった。建築業界は不動産に疎い人が多かったのですが、建物の土台とも言える不動産そのものに目を向けることも建築家の仕事なのではないかという意識もありました。街を探検するメディアに不動産仲介というリアルな経済活動を組み合わせることで生まれたのが「東京R不動産」でした。

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2003年に生まれた「東京R不動産」は、独自の視点と価値観を持つ「不動産のセレクトショップ」として人気を集め、現在では全国9都市にまでネットワークが広がり、公共空間の物件情報を紹介する「公共R不動産」なども展開している(画像提供:Open A)

メディアは街に入るための通行手形

ー馬場さんはメディアが持つ力をどのように捉えていますか?

僕はメディアを魔法の絨毯だと思っています。メディアの取材を口実にすると、色々な人に会えるんですよね。僕は、好奇心の赴くままにあちこちを行ったり来たりしてきたわけですが、その行き来を自由にさせてくれるのが、僕にとってはメディアという魔法の絨毯でした。また、メディア運営を通じてどんなに小さなメディアにも力があるということも学びました。何か状況を変えたくてもいきなり建物を建てるようなことはなかなかできないので、まずはメディアを通して発信をすることできっかけをつくっているところがあるんです。メディアで取材をすることは多くの学びになりますし、発信をすることでさまざまなリアクションや新しい情報が集まってきて、自分が本当にやりたいことが明確になってくる。メディアを企画書のようにとらえて、これからやろうとしていることを世の中に訴えかけると道が拓けることがあるんです。

ー都市や街とメディアの関係についてはどのようにお考えですか?

魔法の絨毯の話とつながりますが、メディアは街に入っていく通行手形のようなものになりますよね。例えば、日本橋の老舗の人たちと仲良くなろうと思っても、見ず知らずの人間が突然話をさせてくださいと言ったらあやしまれますよね。でも、メディアの取材であれば話を聞いてもらえるし、1時間も話していればたいていは仲良くなれる。地域における人のつながりや街の状況などをフラットに知るための手段として、こんなに便利なものはないなと感じています。そういう意味でも色々な街が自分たちのメディアを持つと良いと思うし、良いメディアがある街ではさまざまなことが起こりやすいと感じています。最近は地方都市での仕事も多いのですが、まずその地域にローカルメディアがあるかを聞きますし、面白そうなメディアがあればそれをつくっている人に会いたくなりますよね。

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ー最近は、地域の魅力を発信するローカルメディアが非常に増えましたよね。

R不動産を始めた当時から小規模なWebメディアやブログが力を持ち始めていましたが、誰もがメディアをつくれる現在のような状況までは想像できなかったですね。もはやローカルメディアどころか、一個人による“インディビジュアルメディア”が成り立っていますよね。もしいま自分がメディアをつくるとしたらどんなものをつくるだろうかと考えることもありますが、ローカルメディアは継続の難易度が高いですよね。R不動産は既存のメディアに不動産仲介を組み合わせることで経済的にまわりやすい仕組みがつくれましたが、ローカルの情報を紹介する地域メディアにとってマネタイズや継続性というのは常なる悩みですよね。

ー継続が困難になり、更新が停止してしまうローカルメディアも少なくありません。コロナ禍などを経てローカルに対する価値観も変化している中、これからのローカルメディアのあり方が問われているのかもしれないですね。

そうかもしれないですね。価値観が多様化している中、どんな情報が刺さるのか、人々の好奇心をつかめるのかというのはなかなかわからないですよね。そうした時代だからこそ一個人が巨大なメディアになり得ることもあるし、共通解よりも個別解が大切になってきているのだと思います。また、デジタルツールによって地域を超えて簡単につながれる状況になっている中で、我々が「ローカル」という言葉から受ける感覚も今後変わっていきそうな予感がしています。最近は「面」としての街よりも、「点」としてどんな出来事が起こっているのか、そこに誰がいるのかということの方が気になったりしますし、地域においても「個別解」のようなものが求められているのかもしれません。

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全国のR不動産をはじめ、さまざまな地域を拠点に活動する事業者のネットワークで運営されているローカルメディア「real local」。現在は10を超える地域で展開され、エリアごとに特色あるコンテンツが発信されている(ウェブサイトより)

宿命付けられた日本橋の特徴とは?

ーさまざまな都市や地域で仕事をされてきた馬場さんの目に映る日本橋という街の特徴についてもお聞かせください。

この街に来た当初から感じている特徴のひとつは、道路率の高さです。これだけ道路がたくさんあると、街はまとまりにくいんですよね。最初に拠点を置いた日本橋本町や室町の辺りこそ当時から激変しましたが、いまのオフィスがある馬喰町界隈がこれだけ良い立地にありながらなかなか変化しないのは、道路がありすぎて土地がまとまらないからだと思っています。これは江戸時代から道を介して経済や文化を育んできたこの街の宿命であり、良くも悪くも変化しにくい都市構造を持っているんですよね。街が変化しにくい要因がもうひとつあって、それは強い祭りがあることなんです。

ー強い祭りがあると、なぜ変化が起こりにくくなるのですか?

強い祭りがある地域は、祭りが街の構造に組み込まれているんですよね。例えば、街に新しい道をつくるという話が持ち上がると、「神輿(の通り道)はどうするんだ」という話になったりする。街の風景を守ろうとする意識が、良くも悪くも変化を妨げる要因にもなっているんです。日本橋の人にこの話をするとよく怒られるのですが(笑)、街と祭りを愛する昔気質の頑固なおじさんたちがいて、街の掟も厳しい日本橋は、僕には地方都市のようにも見えるんです。

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日本橋馬喰町にあるOpen Aのオフィス「UN.C. -Under Construction」。コンテナ、パレット、跳び箱などを活用したインテリアや什器で構成されるオフィスの一部はシェアスペースとして少人数の組織や個人に貸し出されている(画像提供:Open A)

ー日本橋は道路というハード面、祭りというソフト面ともに、変化を妨げる条件がそろっていると言えるのですね。

そう思います。例えば、明治になって整備された丸の内は区画が大きいですが、江戸時代からの街区が残っている日本橋は細かくカオティックですよね。こうした都市の構造や街の特徴が僕にとっては面白く見えたし、せっかくあるこの状況を武器にして楽しんだ方がいいと感じたんですね。20年前に僕らと同じようにこのエリアに興味を持ってやって来た人たちは、時代の状況と都市の構造のギャップから生まれる隙間に介入しやすい状況がありました。昨今はそうした楽しい余白がどんどんなくなってきていると感じるのですが、大きなビルが立ち並ぶ「高容積」な室町エリアと、細かい区画の中に高密度に色々な要素がある「高建ぺい」な裏日本橋が良さを分け合い、共存していくような状況になると良いなと思っています。

新陳代謝を繰り返し、変化し続ける街に

ー馬場さんたちが日本橋に移ってきた頃と同じように、近年の日本橋にも新しい世代のクリエイターたちが増えてきています。

2周目、3周目に入った感じがして面白いなと感じています。僕らがこの界隈に来た後、徐々に景気が上向いていった時期があったのですが、それによってこのエリアでも不動産の流通が活発になり、新しいマンションやホテルが増えました。その状況自体には特に否定的ではなかったのですが、海外ほどではないにせよ緩やかにジェントリフィケーション(※)が起こる中、僕らと同じようにここに来た人たちは感覚的に居づらくなったと思うんですよね。地価が上がったり、大きな資本が入ってくることで、どうしてもクリエイターの活動や小さな経済の動きのようなものが飲み込まれたり、見えにくくなってしまうところがありますよね。

※地域の再開発や建物の改修によって、地域全体の不動産価値が向上すること。それによって古くからの住人が立ち退きを余儀なくされるなどの弊害もある。

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馬場さんが個人的に行っていた日本橋エリアの空き物件ツアーなどに集まっていたメンバーたちが中心となって生まれたCET。当時の東京のカルチャーシーンを牽引する個性的な面々が集っていた。(画像提供:Open A )

ーそうしたお話は、これからの日本橋を考える上でも大きなテーマになるかもしれません。

例えば、イーストロンドンやニューヨークのミートパッキングなどのエリアでは、ホテルの1Fに多くの人が集うバーやカフェがあったり、オフィスや住居、ホテル、店舗などさまざまな用途の空間が建物や街区の中で混在しているミクストユース型のまちづくりが進められています。一方で、日本の都市計画はオフィスはオフィス、ホテルはホテルといった具合に用途が縦割りで決められ、ゾーニングされがちなんですね。こうした中、三井不動産が所有している不動産を活用し、コーヒースタンドやバーラウンジを併設したホステルにした「CITAN」などは面白い取り組みだと思います。仮に期間限定だったとしても、住居の1階部分をお店にしてミクストユースを推進する仕組みをつくるなど、暫定的にローカルデベロップメントをしていくような取り組みがもっと増えるといいですよね。

ー馬場さんたちのように独自の視点からこの街ならではの面白さを見出し、新しい文化をつくっていくような次世代の存在も重要になりそうですね。

僕がCETを始めたのは30歳の頃なのですが、当時は“合法的”スクウォッティング(※)などと言って、いまではなかなか許されなさそうなことをゲリラ的に色々やっていました(笑)。それからすでに20年以上が経ち、自分たちが当時やっていたことと同じようなことをすることは難しい状況になっていますが、それでも日本橋は常に新陳代謝を繰り返しながら、色々なことが起こり続ける街であってほしいと思っています。僕も含めCET時代の仲間の中には行政や大企業の仕事をしている人も少なくなく、自分たちの役割が変わってきていると感じます。これからは日本橋に新たにやって来る人たちが街に変化を生み出すプロセス自体をサポートするようなこともしていきたいですし、自分自身も変化する状況を楽しみ続けたいなと思います。

※公有地や空き家に無断で居住すること。

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馬場さんが日本橋に来て最初に構えたオフィス。1Fが駐車場、2Fが倉庫だった日本橋本町の建物をリノベーションして使用していたという(画像提供:Open A)

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日本橋本町にあった元オフィスとその界隈

日本橋に移ってきて最初に構えた事務所と、その前の通りはやはり思い出深いですね。他の人が見たら何の変哲もない場所かもしれませんが、自分にとってはOpen AやR不動産を立ち上げた「はじまりの場所」。倉庫をリノベーションしてオフィスにしていたのですが、やがて1Fにバーができるなど色々なことがあった場所で、この界隈で馬鹿なことばかりしていたのを覚えています。

取材・文:原田優輝(Qonversations)  撮影:岡村大輔

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