100年以上の歴史を持ち、老舗と呼ばれる企業や店舗が多く集まる日本橋エリア。堀留町にオフィスを構えるナカチカ株式会社もそのひとつ。1919年に創業し、105年の歴史を持つ企業です。呉服界で一線級の地位を確立していましたが、得意とする市場の未来を考えたときに新たな挑戦が必要だと立ち上がったのが、4代目・現社長の中島隆介氏でした。同族企業ならではの苦悩の時期を過ごしつつも、時代に則した事業に挑戦し続ける姿。そのチャレンジの根底に迫りました。
呉服分野を専門とするセールスプロモーション業で創業
ーまずナカチカの創業経緯と、当時の事業について教えていただけますか。
ルーツは群馬県・桐生らしいのですが、現・会長の祖父にあたる創業者が商売のために東京に出てきました。日本橋は五街道の起点で栄えていた歴史もあり、「商売をするならこの街で」と日本橋・堀留町に拠点を構えたと聞いています。
呉服の包装紙“たとう紙”の卸業から始まり、事業の中心は呉服店のポスターや広告チラシ、呉服購入時の景品など、呉服分野のセールスプロモーションで、私が入社した2010年ごろも売り上げの約40%は呉服関係でした。
「中近商店」として包装紙、たとう紙に加えポスター、広告チラシ、値札、呉服購入時の景品など多彩な商品を販売する店舗業態をスタートしたそう。写真は日本橋堀留町で1926年に撮影されたもの。
―中島社長は、2010年に入社されて2011年に社長就任されていますよね。もともと同族経営の会社を引き継ぐつもりで入社されたのでしょうか?
結論から言うと、全く思っていませんでしたし、父からも継いでほしいなどとは一言も言われていませんでした。
私は高校までずっと野球をしてきて、同級生と同じように就職活動をして、新卒の時は業界も全く違う会社に入社しました。社会人になって楽しく充実した日々を送っていたのですが、帰宅すると父親が会社のことで悩んでいる姿をたびたび見かけていました。それまで本当に自由にやらせてもらってきていたので、悩んでいる父に孝行がしたい、父親を少しでも助けられるよう若さを使ってシャカリキに働きたいと思うようになって、25歳のときにナカチカに入社させてほしいと話をしたんです。そうしたら、しっかり断られてしまって(笑)。
―断られたんですか?
父が社長の時代は、なかなか将来的に拡大が見込みにくい呉服関連業とどう関わっていくかがとても悩ましい時期で、おそらく同じ苦労をさせたくないと考えていたんでしょう。それに、何をしても社長の息子という目で社員から見られ、圧倒的な存在にならないと周りに認められずしんどい思いをするぞとも言われました。それでも引き下がらずに入社を希望し続け、そこまで言うならと認めてもらった矢先に、父が深刻な病を患っていることが発覚し、僕が入社した翌年に亡くなったんです。
「2015年前後はとにかく人に会いまくって、どうしたら会社として、社長としてブレイクスルーができるかヒントを集めていました」
―親孝行をしたくて入社したのに、翌年にお父様が亡くなるとは。それはとてもショックでしたね。
亡くなったのがあまりにも急でしたが、誰かがこの会社を引っ張らないといけないと、現会長から先代の息子でもある僕が社長に就任したらどうだと打診を受けたんです。でもそのときはまだ入社して1年ちょっと。まだろくな成果も出ていないので断りましたし、僕としては親孝行をする対象がいなくなってしまって、このまま会社に留まることすら迷っていたくらいでした。しかしこのままナカチカを去ったら、亡くなった父に申し訳が立たない。ものすごく葛藤をしましたが、周りにも説得され、父が必死に守り続けてきた会社を引き継ぐ覚悟を決めました。
―突然の社長就任は大変なことが多かったのではないでしょうか。
そもそも社長に就くことを考えてもいなかったので、どうしたら良いものかと悩みました。急に就任した4代目が会社を潰したらシャレにもなりません(笑)。そのために自分としてはまず、会社の中でわかりやすく圧倒的に定量的な結果を出したい、高い売り上げの数値を出すことで周りを引っ張っていきたいと考えました。なので最初の3年はプレイヤーとして突き抜けようと、会社の基幹でもあるマーケティングコミュニケーション事業の営業を必死にしました。当時はとにかく結果を求めましたね。
―社長でもありつつ、営業の最前線にいらっしゃったんですね。
自分の動きを社長業に完全シフトしなくてはまずいと感じたのは、3年ほど経った時です。結果を求めてがむしゃらに動いていたこともあり、当時自分自身の営業成績はそれなりに軌道に乗り始め、期末に個人成績の粗利をみたらこれは会社に貢献しただろうと思っていました。でも、会社全体の業績をみるとギリギリ黒字が現実だったんですね。自分が突き抜けることばかり考えていたけれど、このままではまずい、会社全体のことを考えて動かなくてはと気づいたんです。
失敗しても良いから、挑戦の数を重ねる
―社長業にシフトすると決めて、まず動いたのはどのようなことだったのでしょうか?
先述したように、ナカチカは呉服店のセールスプロモーション事業を長らく手がけてきましたし、間違いなくその売り上げに支えられてきました。しかし、呉服の小売市場規模は一番良いときに2兆円ほどだったのが、今は大体2,000億円規模。呉服分野は明らかに衰退傾向の市場なのに、入社当初の2010年でも会社全体の売り上げに対して呉服分野が40%を占めていたというのが現実で、業界の先が見えているだけに怖さを感じていました。この基幹事業の分脈でさまざまなクライアントの販促も手がけてはいましたが、今まで目を向けてこなかった全く新しいチャレンジをしないと会社の存続自体が危ぶまれるのではないかと。その新しいチャレンジ、言うなれば新規事業をどうやって見つけよう・・・となり、そのヒントをもらうためにとにかくいろんな人に会いに行きました。
さらに社内にもその自分の考えや想いを知ってもらう必要があります。社長が何か新しいことをやっているぞという雰囲気だけでは、私の想いは伝わらないと思ったので、「創業100周年を迎える2019年を会社が元気な状態で迎えるため、さらに次の100年も見据えて、私が責任者となってさまざまなチャレンジを行います」と宣言しました。今まで積み重ねてきたことも歴史も、もちろん大事ですが、この先もナカチカが元気に存続していくためには、新しい挑戦をする文化を会社に醸成することが必要だと思ったんです。
―歴史があると失敗を恐れて慎重になることもありそうですが、中島社長はそうではなかったんですね。
私は学生時代ずっと野球をやっていて、「結果が全て」と思っている節がありました。監督に言われた通りに投げられなくても、試行錯誤しながらなんとか凌ぎ、相手を抑えて勝ち進めさえすれば誰も何も言わないし、褒められる。この経験が根底にありました。
企業経営に置き換えると、例えば10個新しいことに挑戦して、8個失敗したとしても2個は成功して、その2個の成功で全体が黒字であれば良いと考えられるのではと。だからとにかく挑戦の数を重ねた上で、その中から数個でも良いから結果を出すことが大事だと考えました。もちろん社長が失敗するなんて見栄えは良くないですが、短期的に赤字を出したとしても、それを挽回できる結果さえ出せれば社員も認めてくれるはずと信じました。
挑戦から課題を見つけ、それを次に活かす
―その考えの元で、すでにいくつかの新規事業が軌道に乗っていますよね。具体的に伺えますか。
基幹事業であるマーケティングコミュニケーション事業と全く違うベクトルのものを2つ紹介します。
ひとつは、プログラミング教室です。この事業はとある大手有名企業の内定者と出会ったことから始まったのですが、彼からその内定を蹴ってナカチカに入りたいと言われたんです。彼の未来を考えて本当にナカチカなのかと聞いたのですが、それでも折れずにうちに入社したいと。そこまで言うなら彼がナカチカでやりたいと思う新規事業の事業計画書を出してくれと依頼をしました。何が出てきても最初から成功するとは思っていませんでしたが、その事業に取り組むことによって成長していく姿、挑戦している姿を社員にも見せてほしいと思ったんです。
そこで出てきたのがプログラミング教室でした。教育は儲からないイメージもあり最初は悩みましたね。
―挑戦の機会とはいえ、最初の事業計画書を推し進めるには勇気があったんじゃないですか?
赤字の時期も長く、大丈夫かなと不安になることもありましたが、挑戦する文化を作るためにも彼に託しました。発案者の彼は努力をし続け、5年目で黒字転換。その時点で分社化をして、今は彼が社長を務めています。今は対個人の教育事業だけでなく、企業からAIを使ったプロジェクトを請けたり、大手企業と連携してフリースクールの年間契約を結んだりもしています。彼がさまざまな企業との事業にも注力している姿をみると、挑戦してもらって良かったなと感じています。
2018年に吉祥寺にオープンしたITものづくり(プログラミング)教室、「3rdschool」。
―挑戦する文化を作る、というのがまさに体現されている事例ですね。もうひとつの事例も教えてください。
映画の作品配給と映画館運営の事業を手がけています。これは、新規事業のヒントを得ようといろんな人に会っていた時に、映画関連事業を考えていた人に出会ったことがきっかけでした。世の中には優れた人、面白いことを考えている人がとても多いのに、大きな組織の中にいることでそれが実現するまでに長い期間がかかっている人がいるんですよね。もしナカチカにいたら、その人が今考えている面白いことがスムーズに実現できるのにと思うことが多くて。当時出会った彼もそのうちの一人。彼がやりたいことをナカチカで実現できたら、ナカチカとしても新しい挑戦のひとつになるのではと思い、仲間になってもらいました。
―挑戦する人へのアンテナを高く張っていたんですね。
彼がナカチカにきたことで、この分野に長けたメンバーも集まり、映画関連事業にますます注力していこうというタイミングで持ち上がった話が、菊川にある「ストレンジャー」というミニシアターの運営です。東京の西側エリアにはミニシアターが多くあるけれど、東側エリアにはひとつも存在していませんでした。競合優位性があるそのエリアに、2年前に新しいミニシアターがオープンしたのですが、運営がうまくいっていなかった。
今、ナカチカに集まっているメンバーだったらもっとその劇場を輝かせることができ、さらに地域の文化的なハブとして活用させることができるのではと考え、今年の初めに経営の権利を譲ってもらいました。もともとミニシアターがないエリアだからこそ、自由度が高い挑戦ができ、支配人以下みんなで「ストレンジャー」ならではの企画や特集上映を考えてどんどん仕掛けています。また街ぐるみで「ストレンジャー」をどう使ってもらったら地域の活性化につながるかも模索しています。「ストレンジャー」という場所を得たことで、ナカチカ自体の挑戦の幅も広がっていますね。
カフェ併設型ミニシアター「Stranger」。49席の劇場と15席程度のカフェが一体化した新しいスタイルの映画館。カフェにくる感覚で映画を観にくる人も多いそう。
8月8日までは野望や欲望、挫折をテーマにした作品を数多く手がけたジョン・ヒューストンの特集上映を開催。日本未公開作品を含めた年代別5作品をセレクトし、5作品セットの前売り券も人気だった。
―中島社長がおっしゃっていた挑戦の数が、どんどん増えているんですね。今後仕掛けたい挑戦はありますか?
誰かに新しい挑戦をしたいと言われたときに、金銭的にも文化的にも応援できる環境を整えておくのが、今私がやるべきことだと認識しています。誰かの挑戦に、他部署からでもどんどん乗っかっている姿を目にすると、少しずつ私が目指していた「挑戦する文化」が浸透してきたなと感じられますね。
例えば、ストレンジャーの販促物は、映画事業に関わっているメンバーではなく、マーケティングコミュニケーション事業のメンバーが自主的に制作してくれているんですよ。部署を跨いで挑戦を応援し合えるって良いですよね。
一方で、新しい挑戦って楽しいことばかりじゃないと思うんです。時には心が折れそうになることもある。でも、会社全体にチャレンジャーを応援する文化が根付けば、困っていたら絶対誰かが助けてくれる。そんな土壌を耕し続け、挑戦したいと言われたときに、応援できる会社でありたいと思っています。
「戦ったこと、挑戦したことが素晴らしい!と言える会社にしたい。そうしたら、チャレンジしてくれる人も増えて、会社全体が元気であり続けられるはず」と語る中島隆介社長
日本橋・清寿軒
1861年創業のどら焼きが有名な和菓子店。会社からほど近い場所にあり、営業時代にクライアントへの手土産やミスをしたときのお詫びの品として(笑)よく使っていました。
取材・文 : 古田啓(Konel) 撮影 : 岡村大輔
ナカチカ株式会社
創業来の基幹事業となっているセールスプロモーション領域に加え、映像、物流、オンラインサービス、ヘルスケアなど多種多様な領域に取り組んでいる
Website:https://www.nakachika.com/